送迎バスは使わない。少額でも費用を抑えるためと、とにかくバス待ちの時間が私には重すぎるからだ。娘と二人、自由に園を行き来する方が辛くない。
それでも、つらかった。
娘には悪いが園に行くと思うとすこぶる憂うつになる。
娘と園を出入りするとき、何かしなくてはならないという強迫観念が押し寄せる。
「いい親でなければならない」という強迫観念だ。
それが娘のためなのか?ママとしての体裁が欲しいだけなのか?わからない。たかがお迎えで数分の出来事だろうから、いい親でなくてもいい親でもどっちだっていい。誰から見ても普通の振る舞いであれば何も問題ないし、なによりも誰も私と娘を気にしていない。
なのに、その思いがこびりついている。
他の子のママのように、表情豊かで綺麗になりたい。
娘がよちよち歩きだった頃、私が引きこもっていなかった頃、私が精神科に通院していなかった頃、福祉制度とは無関係だった頃、私は自惚れだが綺麗なママで化粧もちゃんとしていた。自惚れだが……
身なりとかではなく、内面からにじむ健やかさが欲しい。
けれど、今までの負い目や罪悪感を修復しなくては、この思いは永遠にほどけない。そんな気がした。
悲しみがいつまでも続く。私が強くならなければ、と続くのだ。
金曜日。
自転車で娘を迎えに行った。
娘は歩くというので、手をつなぐ条件付で歩いて帰宅。
おやつがほしいとか?
帰り道のスーパーで、娘が唯一食べれるシリアル、玄米フレークを買ってから帰宅。
娘はさっきから幼児ビデオを見っぱなし。その横で、私は夕方まで横になっていた。
動けない
動けない
このままご飯の用意もままならないのなら、やはり助け船が必要か?それが娘の為であり、私も休めるのではないのか?
でも、嫌だ。
離れたくない。
こうして文字にすることで自分の気持ちを整理しようと思うが、ダメだ。結論を出すことができない強い葛藤が私をギュウギュウ挟み付けてくるような疲労感だ。
「ビデオもうお終い!」
娘のかわいい声で少しシャンとした。
なんとか、宅配食材を温めた。
なんとか、ご飯を食べさせられた。
旦那からのメールで夜は旦那に期待できなさそうなので、風呂掃除もした。
そして、風呂も入れた。
私はボロぞうきんのようになっている。
体も心もそうなっているのだ。
病気なんだが、どうして動く?
病気だと言うのに、どうして私は動く?
分からない。
分からない。
またまた生きるためと言うか?
どうして、生きることに執着するのか?わからないけれどわかるような気もする。娘を愛しているからだ。ついでに旦那もいる。役には立たないが、それは私がそう感じているだけで他人から見れば旦那も嫁と娘のために見えない努力があるのかもしれない。
よく考えてみれば、ここぞと言うときは仕事を休んだりしながら私を助けてくれている。
感謝しなければいけない。
強い葛藤と向き合うより、娘への愛情と旦那への感謝に気持ちを向けてみよう。