子育てに悩む引きこもり主婦のブログ。ダメママでも母親失格でも・・・そして精神病でも子育てはできるのだ。虐待を受けて育った子供は、大人になり親になると同じことを子供にしてしまう?明るいママ友コミュニケーションのそばで子供がキャッキャと遊ぶ風景なんて私たち親子にはない。それでも私は娘を愛してる、もう児童相談所には預けないと誓う。
スポンサーリンク

幼稚園のママ友に心の病気を告白すべきではない


ママ友とは、なんてワイワイ明るいイメージがする言葉なんだろう。


幼稚園に集うママ友が集まれば、幸せイッパイ笑顔イッパイの風景がリンクする。けれど、そこには思いも寄らないトラブルや難しい付き合いに巻き込まれてしまう影がひそんでいることは、実際に幼稚園児のママとなって体験する。

私にとって、幼稚園という構えは街の風景を平和のシンボルのように彩るモチーフだった。それはつまり、私にとって幼稚園とは絶対に争いのない、信頼と優しさに満ちあふれた場所だったから。小さな子供達が生まれて初めて社会集団を経験するための場所は先生たちの笑顔と若いママたちの優しさにあふれた空間だと思っていた。
けれども、自分が母親となり幼稚園に関わるようになれば、ママ友という響きに恐怖感とか警戒感を感じるようになってしまった。それは決して不特定多数のママ友たちを否定する意味ではないのだが……。

ただ、精神症状を持ち、子育てもままならないママである自分の詳細をママ友にオープンにすることは、総じて危険だと思った。


――週末は保健師が意味不明に訪問してきた。保健師の訪問に見合わすようにして、幼稚園に児童相談所のHさんが来ていた。普通に「あら、偶然だね」という感じで出てきて、いつもとは違う明るい対応をしていた。けれど……本当だろうか? 保健師に通報受けたからではないだろうか? と、疑ってしまう私ってやっぱ病気ですか? それより! 児相の担当者が幼稚園に来て私と話している姿をママ友に見られたらどうする?

さいわい、児相のHさんと会話する姿はママ友たちに見られずに済んだ。その日は幼稚園で疲れていたのか、寝入りも早かった。助かった。私の心が伝わっているのかもしれない。私は自由。私は今、何もしばられていない。そう思える事を娘は感じ取っているのかもしれない。そんなことを保健師に告げただけなのに、児童相談所のHさんは心配して様子を見に来たというわけだろう…しかし、できれば目立たないように来て欲しい。人にはあなたと会っていることを見られたくないのだ。


もし、彼女たちに私の精神病に関する〝話のネタ〟が回れば…きっとママ友たちはおもしろおかしく井戸端会議でもはじめるのかしらん……。


彼女たちが時間がたつのを忘れて盛り上がる話は決まって〝人の悩み〟だ。誰かのママがこんなことあんなことで悩んでいるからどうだああだってペチャクチャするのは、見ていると嫌気が差すがやると楽しい毒性がある。つまり、他人のプライベートをウワサすることは客観的に見て非難されるべきだが、いざ、自分が会話にはいればワクワクゾクゾクする楽しさがあるらしい。

幼稚園デビューしたママは、まずここで自分の立ち位置を自分に問うことになる。ママ友の付き合いに積極的に頑張るのか? ほどほどにするのか? 私のように変なママとして親子共々片隅で過ごすのか?
自分的には、三対五対二の割合だと思う。幼稚園の送迎バスの停留所や園の正門前でドンと存在感を強めてマシンガントークする、学年の主役的グループとなるのが三割。気持と表情を上手に使い分けて有益な情報には参加してもクダラナイ話にはスッと背中を向けるママが五割。私のようにネタにされやすい〝変なママ〟が残りの二割。
もっとも楽なのは真ん中の五割に身を置くママたちであろうが……

ある日、スマホにメールが届いていた。内容は非情だった……。差出人はN君のママだ。「幼稚園、辞めたの?」と書いてあった。実は、娘への虐待のからみで転園した経緯がある。転園の際、誰にも知られずにコッソリと逃げたような私たち親子がN君のママは不信だったのだろう。

要するに、N君のママには、私が精神病者で子供を虐待した事実があり児相の一時保護処遇まで受けている出来損ないのママであることが身バレしていたのだった。きっと今頃、前の幼稚園では「あの変なママはやっぱり頭がおかしかったんだ」なんてママ友たちの話題になっているんだろう……。

漏れた理由はママ友のMちゃんだ。私が以前、元児童館仲間+リアルで鬱告白したママ友Mちゃんが2人目を妊娠したという話をメールで聞き、返信時に「妊娠おめでとう!」と「転園できたんだ」と告ったので、どうやら児童館仲間以外にも話が漏れているようだ。そのひとりがN君のママに該当する。

私が信頼していたのに、その人に(悪気は無いのだろうが)その他の人にバラされるのは嫌だ。(これだから、リアルに病気の話や児相の話はできない)
リアルな人にばれたくなかった…。
リアルでばれて今まで私は半端じゃなく傷ついてきたからだ。

私が病気で、更に娘を虐待したから児童相談所を使い転園できたなんて言えないよ。どうしたらいいのか、また頭がパニックになっている。私はつらい。また頭がボーッとする。頭の中がくもの巣でもはりめぐらされているようだ。そもそもママ友なんていないに等しいのだが、健やかだった頃には少しいた。

プライバシー、心の病気について、ママ友には隠しておくのが賢明だと思った。

オープンにして得られる協力よりも、傷ついてしまうリスクの方が大きいと思う。

ここでママ友の話から離れ、いいママの基準がどんなものか? と、考えてしまった。自分の母親のようなママにならないか? こわくてたまらない気がしたからだ。私はいつだって過去のトラウマを背負うと同時にトラウマに反発している。受け入れて自己解決することができずに自分が妻となって子供を産んでママになってしまった。母親に愛されずに育ったトラウマを解決しないままママになったことは、少なからず自分の子育てに影響している気がする。

ママである自信がない……

それなのに理想を掲げている私はなんだかおかしな人間だ。
いったい自分がどんなママでありたいのか?はっきりと言えないくせに自分の母親のようにはなりたくないと常に思っている。それなのに、娘に冷たくしたり子供の笑顔を迷惑に感じてしまったり、精神疾患混じりで子育てから一時的に距離を置きましょうということで施設に娘を預けることになったり…落ち着いて考えてみれば私ってどんな母親だ? どんな嫁だ? どんな主婦だ?

そういえば、産後うつだった知人は入院中に先生に言われたそうだ。

子供の存在が負担に感じる間はママに戻る必要はない。入院は静養で、何ヶ月でも焦らずに自分を大事にしていると立ち直り、自然と子供に会いたいなという気持ちがわいてくるタイミングこそが回復とか完治のタイミングなんだと。
ママだから、妻だからと自分の役割を四六時中背負うしかできない人は立派だが壊れやすい。――ねばならない――しなくちゃが多い人。そういう人は、自分の少しでも幸せな自分の為の時間を過ごすと回復が早いのだ。とその入院されて復活した人はおっしゃってました。

いいママでありたいと思っている。

けれど、良いママを自己表現することがトラウマの解決策であるなら娘はかわいそうな存在に違いない。私の娘は私のトラウマを解決するために存在しているんじゃない。自分の人生を生きるために存在しているのだ。
自分の幼少期と娘の存在を完全に切り離さないといけない。


いろいろ考えた一日だったが、実は美容院に行った一日でもあった。一年ぶりに縮毛矯正をかけてきた。かなり野暮ったい髪型から変身できたと思う。
でも……美容師さんが男性だった。かなり……かまえた。
すると、人格が入れ替わった。ルイだったみたい。
ルイはとても愛想がいい。屈託なく喋ることができる。でも、私ではない。
以前、タクシーの運転手と話したのもこの子だ。
私は男性が苦手だ。

そのせいか、男性としかたなくコミュニケーションをはからなければならない時、ルイが現れる。
ちなみに、男性が苦手でも旦那の場合は弟のようだったので平気だった。
それでも、一時は平気な時期があった。それが再び旦那以外の男性に恐怖心のような感情を抱くようになってしまったのはカウンセリングを受けるようになってからだ。
カウンセリングを受けるようになってから、私自身の心の中がごまかせなくなったんだろうか? 直視しないことで意識を遠ざけていたわだかまりのようなものを、カウンセリングはごまかすことなく心理的に自己解決しなさいと導いたんだろうか?

その男性に髪を触られるだなんてイヤだ、とても。
だからかルイは現れた。私を守るために…

帰宅後、軽くなった髪を眺めながら自己満足の世界に浸っていた。
疲れたが、有意義な休日だったんじゃないか?
夕飯も支度できた。
娘に絵本を読んであげることもできた。
とりあえず、今日は自分自身もきれいになって娘とのコミュニケーションもとれた一日。
こんな程度でも、とりあえずいいママだった一日としておこう。
スポンサーリンク



アクセスの多い投稿