カウンセリングで精神病が治療できるとは思っていない。カウンセリングは子育ての悩みを吐露する浄化作用だけが目的だ。
あまり高望みしても結果は出ないから、それに子育ても精神病のケアも他人任せではいけないと、いちおう肝に銘じているから……。カウンセリングを受けようとする当日。体が重くて動けない。朝六時半、起きた。昨夜は娘と一緒に9時半に寝たから今日の睡眠時間は9時間。八時までの一時間半、なにをするでもなく鬱々と過ごした。登園は旦那に任せた。
私は通院先でカウンセリング。カウンセラーの心理士と話した。
「娘が笑ってくれても笑えないのが辛い」「笑えなくて当然ですよ。鬱がひどい人は無表情になりますからね」
自分の悩みを当然だと肯定してくれると嬉しい。嬉しいけれど、カウンセリング中の表情はやっぱり無表情だったようだ。
やれやれ、こんな顔して園の迎えは気が引ける。娘だってこんなママを友達の前にさらしたくはないだろう。
「人が動いていると動かなくてはならないという切迫した感じがある。思わなくても体が勝手に働く。心がなくても体が動く。責められている感じがして動いてしまう。尚更、辛くなる」
「過去の出来事が原因で、他人の行動にあおられてしまうような気持ちになるんでしょうね。もともとの考え方もあるけれど、習慣というか癖というか、そう考えてしまう習性が身についてしまったんでしょう」
「私が毎日引きこもって働きもしないせいで旦那に負担をかけている気がする」
「たしかに、あなたに働いてほしいという願望はあるかもしれませんね」
「引きこもってばかりで外に出ると言えば簡単な買い物と娘の世話だけ。それでも自分はがんばっていると思うこともあるが、旦那は内心、私の日常に不満があるように思えてしかたがない」
「……………」
「それでも旦那に家計は任せられない、旦那を責める気は無いがどんぶり勘定な気質だからいい加減なことをされると将来が心配だ」
「ご旦那にやらせてみてはいかがかしら?今まであなたが一生懸命、家計をやりくりしていたのを理解していないんじゃないかしら」
「育児も家事もおかしいと思うことがある。離人感でやってるような……私は悩んでいる。判断ができない。本当に辛かったら、また娘を施設に預けるのかもしれない。でないと娘に悪影響を及ぼす。娘にとって、私が害になる前に手を打ったほうがいいのかもしれない。」
「その通りですよ、つらかったら福祉を利用しましょうよ。今はがんばらなくていいんです。徹底的に休む時間ですよ」
カウンセリングを終えて今度は主治医と話した。
私はがんばりたい。けれど主治医も心理士もがんばらなくて良いと言う。問題は、旦那と娘がどう考えているかだ。
でも、旦那はきっとがんばるなと言うだろう。そういうときはプロに任せた方が良いと言って娘を施設預けにすることに抵抗が無いようだから。
やはり娘の気持ちが大切だ。
小さな胸の内でママがんばれなんて声援してるとしたら、再び児相を訪ねるなんて母親失格、酷すぎる。
頑張れないことと、子育てを投げてしまうことは違うはずだ。
日が過ぎた――そして再び、カウンセリングの日だった。
この日、時々、人格が入れ替わってしまうと自己評価してしまうことについて話した。
するとカウンセラーは言った。
ある意味で、人格が入れ替わることは良いこと。他人格が自分を守るための楯になっているとするなら、ある意味でそれは良いことだと言われた。
だから、他人格が私を守るために存在しているとしたら、私は他人格を頼ってもいいのではないかというアドバイスだった。
他人格を頼る?
カウンセラーの発言には驚いた。しかし言われてみれば、私は自分が逸脱してしまいそうな時、かなりの確率で離人感が現れる。そこにもう一人の私がフッと登場するのだ。そうか、これは私の自己防衛だったんだろう。
けれど、そのたびに私は他人格は正義ではなく悪だと決めつけていた。だから名前付きで登場する他人格を常に否定していた。
そうじゃないということだ。他人格は私を守るための自分だった。カウンセラーには大きな気づきをもらえたんじゃないか。
近々、旦那の親、義母が来ることが辛いと訴えた。
来ると、また違う自分を装いそうだ。カウンセラーは旦那に相談して日を延ばすことや断ることの、私の権利について具体的なアドバイスをしてくれて助かった。他人事として聞けば、延期も断りも単純明快な解決策に決まってるが、心を病むと合理的な思考ができない。だからこそ合理的に導いてくれるとうれしい。そこで初めて思考のゆがみが変化するように思う。ようするに、合理的な思考が私に無いのではなく有るのに機能していないということだ。カウンセラーは、機能停止した私の心のパーツをうまく刺激してくれる気がする。カウンセリングには効果があるようだ。
帰宅すると昼寝、起きて、園のお迎え。
昼寝から目覚めると憂鬱になる。娘を迎えに行かなくてはならないからだ。幼稚園に行かねばならないからだ。帰宅すると家事をせねばならないからだ。
それでも、その毎日を繰り返そうとする。
おやつ、おふざけの相手。私はぐったりしていた。
ヨーグルトの冷蔵庫在庫が無くなったため、娘とスーパーに行こうと準備していると旦那が帰宅。ぐったりしている私に見かねて、旦那が代打でスーパーに行った。
帰ってきてからも、娘をかまってくれて遊んでもらえた。娘には言えないが、助かったという気持ちになった。
それは、私が体調不良の時にまで人格乖離して育児をしなくていいという意味で助かった。
久しぶりにピザを取ってみようという話があり、夕食はピザに(娘だけはアレルギーで食べれなくて和食だけども…)
一昔前の私だったら、家計に潔癖でそういうたぐいの食事は絶対嫌だった。
でも、それが出来るのは進歩じゃない?
手抜きするのも大事なことです。
午前1時、布団に入った。
娘がゼエゼエ言う声?で眠れなかった。(多分痰が絡んでいたんだと思うが…)
私は耳をふさいでいた。なんて母親だ、私は?
どうして、こんなに嫌なのだろう。
どうして嫌な気分になるんだろう。
どうして無表情になってしまうのだろう。
どうしてなんだろう。
もっといいお母さんになりたいのに。
どうしてだろう。
何か原因があるのかな…
よく分からない。
カウンセリングで有意義な時間を過ごせても、得た気づきが日常にリンクしない。
そんなものなのか?
一夜漬けのカウンセリングではだめなんだろう。
道のりは長そうだ。