子育てに悩む引きこもり主婦のブログ。ダメママでも母親失格でも・・・そして精神病でも子育てはできるのだ。虐待を受けて育った子供は、大人になり親になると同じことを子供にしてしまう?明るいママ友コミュニケーションのそばで子供がキャッキャと遊ぶ風景なんて私たち親子にはない。それでも私は娘を愛してる、もう児童相談所には預けないと誓う。
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精神病の女が子供を産んだことに後悔しても自分を責めちゃダメ


精神病でありながら結婚して子供を産んだこと、産んでしまったことについて後悔の念が積み上がる経験は私だけだろうか?

子供はどんなときもどんな子供でも母親がどんな状態でも、愛情は一定で不変に存在するのだろうか? 赤ちゃんが産声を上げてお腹から出てきたときは嬉しいという感情を確実に体験した。でもそれは人生の瞬間的な経験だった。

子育てに向いているかどうか?適正とか?母親の資質とか? そういうことを理由に育児放棄するつもりなんて無いのだが、抑鬱感と離人感が私の育児に強く大きな抵抗となって、産んだことを後悔するような罪深い精神病の母親人格をつくりあげる・・・・・・。

すでに娘は児相の一時保護処遇によって、生活を共にしていない。母親と暮らすというよりも、むしろ精神病の症状と共に過ごすほか無い子供の危険と不幸は子の福祉に反する十分な要件なのだった。だから、子供の安全と福祉を根拠として母親ではなく児相の保育士さんが育児するのが妥当だと判断されたことに逆らえる身分でもないだろう。

起きて子供の存在がない・・・朝食は旦那が作ってくれた昨日の夕食の残り物。それが胃にもたれた為、昼はバナナ。今日は月曜日。一週間の始まりだが憂鬱でどことなく緊張している。

育児困難の診断を受けた私。一時的に離れて暮らす娘が心配だ。保育士さんにぐずっていないだろうか?

ママママと泣きじゃくってないだろうか?
ここんとこ起きていて考えることはただそれだけだ。

シャキ!っとしろ自分。そうやって自分にげきを飛ばしたって何が変わるわけでもなく時間が過ぎる。あたし、こんな毎日送っていて、全く前進していない感じがするのにいつか本当に娘と暮せるようになるのかなぁ?とか、窓から見える通りすがりの親子を見ると娘が重なる。精神的な問題が消えてふつうのママたちのように明るい親子でいられるんだろうか?

・・・・・・また泣いている。シャキ!っとしろと言い聞かせているのに泣いてるあたしは本当にダメな母親だ。精神病、母親失格、子どもは親を選べないと思えば罪悪感も抱く。子供は大きくなって身も心も成長したとき、母親から愛されなかったこと、自分が生まれたことを後悔されてしまったことについてどんな感情を抱くんだろう?

母親を憎むのだろうか?後悔するなら最初から産むな!と、大人になってから老いた私を責めるのだろうか?そのとき、言い訳はできないだろう。原因はなんであれ、今こうして産んだことを後悔しているのは事実だからだ。

なんてダメな母親だろう。どうして結婚なんてしたんだ? ずっとひとりで生きていけば良かったのに、なんて無責任なんだろう……
何故あの子を産んでしまったのだろう。自分の属性をわきまえられなかったのは罪深いはずだ。自分の手で育てられない自分を責めるしかない。

しかし、児童相談所のHさんがこんなことを言っていた。

産んだことを後悔したり子供を児相に預ける必要がある母親である自分を責めないことが大事。

子供を産んだこと、子育てが上手くいかなかったこと、精神病のケア、生きづらさが消えないこと、将来に悲観的であること・・・今の状況に悲観することよりも先々のことを明るい気持ちでイメージしていくことが大切だと。そうだその通りだ。早く娘を迎え入れられるように心の調整を進めよう。

娘が児相から帰ってきたら何がしたいか?私は普通に笑いあいたい。あなたを産んだことを後悔なんかしてないよ!生まれてきてくれてありがとう!って心から伝えたい! 私に向かってケラケラ笑ってくれる愛娘の頭をなでながら、児相での不自由だった暮らしを受け止めてあげたい。そうして、その日あった事を話し、気持ちを受け止めてあげられるような普通の親子でいられるようにがんばりたい。

それはすべて、自分の母親にしてもらえなかったことばかりだけれど、だからこそあたしは自分の娘にしてあげたいと思う。
それから毎日引きこもっていないで何でも良いから用事を見つけて外に出てみよう。
そんなわけで、TSUTAYAで借りてきたクラシックを聴いています。


――今日は診察だった。
どうしたことか、旦那が通院に同行すると言い出した。いったい何のために病院に行くのか、改善をともなわない毎度のことに気だるくしているあたしは、旦那が運転する車の助手席でうなだれていた。

診察室にて――
「先生、相変わらず家事も育児もする気持ちがおきません。これは症状が悪くなっているんですか? 娘も児相で保護されています」
「そうですか……」
「先生、精神病が治らなければ娘は育てられないのですよね?」
「……児童相談所で大勢の子供達と団体生活するのも悪くはないよ。むしろその方が楽しいかもしれないよ」
「………」
「私は治りたいのですが、こうして家事や育児を休み薬を飲んでいるのに治らない。心の病気を治すことは無理なのでしょうか?」
「治るというのは、あなたが性格を変える。 変わらなければ治ると言えないのかもしれないよ」

主治医はまた、精神病を治すのは自分次第だと言うのか?

あたしが頑張らなければ、あたしが変わらなければ今のこの状態は続く。
うつ病の気だるさ、落ち着かない強迫症状、まるで自分が自分でない離人感。別人格の出現…こんなことでは子育てもできない、特定できないような精神症状がフラフラ自分を取り囲んでいるような母親だから家事もできない、引きこもり主婦だから働くことさえできない、結果、引きこもって家でモゾモゾしてるだけじゃないか。つい、強い口調で主治医に言いかけたけど瞬間的に言葉にはできなかった。

そのやりとりの後、初めて旦那と主治医を会わせた。
でもあまり手ごたえがなかった。家族が診察室に同行した意味はなかっただろう。
だって先生に言われた事は常に旦那に話していたし、旦那が疑問に思う事も先生に伝えていた。
だから、なにをいまさら顔を合わす意味があるんだろう?とは最初から感じていた。

でもひとつ期待していたことはあった。
妻として、母親として、機能していくために今後の治療計画や治療目標について家族の口から精神科医に尋ねてもらうことは、あたしにとって有用な出来事だろう。
医者としてあたしには言いにくいような内容だったとしても、あたしが席を外した状態で話し合う場ができるかもしれない。


旦那が診察に同行してくれたことは嬉しくもあり、さらに孤立する気持ちが植え付けられた気分でもあり、複雑な1日だった。やはり、ひとりで頑張るしかないのかもしれない。

自分を責めない。

これは最大の課題なんだろう。なかなかできない、昔から…。
幼少期、母に責められ続けて、気がつけば母に変わって自分が自分を責めるようになっていた。けれど、今のあたしは考える事ができる大人。それに娘もいる。だから、私は「自分を責めない」人間に変身したいです。
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