子育てに悩む引きこもり主婦のブログ。ダメママでも母親失格でも・・・そして精神病でも子育てはできるのだ。虐待を受けて育った子供は、大人になり親になると同じことを子供にしてしまう?明るいママ友コミュニケーションのそばで子供がキャッキャと遊ぶ風景なんて私たち親子にはない。それでも私は娘を愛してる、もう児童相談所には預けないと誓う。
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母親失格 それでも私は子育てから逃げはしない


心の病気、精神疾患が原因で子育てに問題行動を発生させてしまった母親。

と、これが私の属性なんだろうが言い換えればこうなる。

私は母親失格です。

けれど、この主原因には私の生育歴がからんでいる。つまり、私自身も〝私の子育てのような育てられかた〟によって育ったというもの。
結論として、愛されなかった子供は子供を愛せない…となる。
さらに、虐待された子供は子供を虐待してしまう…となる。
では、それは許されざる結論なのか?違うと思う。繰り返されることが許されるものじゃない。でも、繰り返される。繰り返さないために努力や治療が必要となる。
それはなんて悲しい現実だろう…
自分の問題をなにかのせいにすることは間違いなんだろうが、なにかのせいにすることで自分を許すことができるなら、それもひとつのセルフケアかもしれない。

児童相談所は、問題を抱え子供と一緒に暮らすことのできない親子に距離を与える権限を持っている。そのことはやはり親権という強い関係を飛び越えて執行される力だから慎重で適切な処遇でなければならないが、児童相談所は子供の福祉を第一に考えるから、母親の言い分や状態に照らし合わせてというよりは子供の幸せにとって最も良い判断が最優先される。
だから、場合によっては母親の意思に反した〝保護〟が行われてしまう現実も世の中にはあるのだろう。
精神的に混乱してしまった母親による病気に操られてしまった結果の言動から判断して、母親と子供を離してしまう現実は悲しいと言えばそうなるが、一緒に居ることのリスクを考えれば妥当とも適切ともいえるかもしれない。


心の病気、精神疾患が原因で子育てに問題が発生した母親は、普通のママのような悩みを抱える以前に、ママとして的確かどうか?のジャッジを受けなければならない時があるのだ。
引きこもり主婦とひと言でかたづけてしまうと、いろんな問題がかくされてしまう。
病気を理由にひきこもり、子育てから逃げてしまうことで子供に被害が生じることはあってはならないことだ。

母親失格…。

母親が母親として機能しないことが、子供にとってどれだけ重大なことか…悲しいけれど結果からわかる話なのだ。
母親として機能していないことを責められても病気だから仕方がないと言い訳すれば子供への懺悔が強烈にこみ上げるし、自分を責めることをやめれば過去のトラウマを責めてしまうだけの話。
とにかく何かを責めていなければ今が成立しない状況は、子供にとってはとても危険な生育環境だったんだろう。

心の病をかかえて子育てしている私には、やはり子育ては無理なのか? 母親と子どもの距離を少し置いた方が良いと児童相談所に判断された頃、旦那と話し合ったことがある。

旦那の意見はずばりこうだった。
「お前が治るのはいつになるかわからないんだろう? 2年間、施設に子どもを預けている人がいると言ったよな? それが俺たちだったらどうだ? じゃあ、娘は4、5歳まで施設か? そんな歳になるまで施設で暮らして、いつ戻ってくるかわからない親を待つよりも、優しい里親に永久にみてもらった方がいいんじゃないか? 結局俺たちは子育てが出きなかったんだよ」

私の意見はこうだ。
今は病気を治す事に専念したい。それには旦那の援助が欲しい。つまり、不安だからそばにいて欲しい。そして、相談したらきちんと答えを出して欲しい。病気が良くなって娘を愛せるようになりたい。愛する娘と楽しく生活したい。そうなるまで、時間が欲しい。私はもうこれ以上、子育てから逃げたくない!

母親としての資質に欠ける自分が下手な希望を持つよりも、親であることを捨ててしまう。それがつまり、自分たちの娘が最も幸せになる術だと説く旦那。精神症状を治療している時間に娘はどんどん成長してしまうかもしれないが、私は母親であることを捨てたくはない。努力する時間が欲しいと望んでいる私。母親失格だとしても失格のまま母であり続けたいのだ。

それは、考えてみればどちらも正論じゃないか? どちらか一方が誤った考えをしているとは思わない。旦那が里親という言葉を持ち出した背景には、旦那の仕事柄も一因しているように思う。

旦那の仕事はいきなり出張だの宿直だの……普段から家にいるかいないかわからないような働き方だったからだ。旦那は自分が好きでやりたかったといってその職場についた。そして休みは不規則で……そんなことだから、嫁が病気でも旦那が子育てを応援すればなんて形がとれない。 

つまり、子育てとはどんなときだって嫁がメインでやることなのだ。けれど、週に3日も帰らない父親と、心の病の妻に、幼い子ども。そんなの家族って言えるのか? 私は娘と二人っきりになるのが怖い。一方で、一人でいるのもこわい。この心理状態は精神病的な問題を抱えながら子供を産み育てるママであればおそらく共感できる気持だと思う。


娘が児童相談所に保護されたとき、精神状態が混乱して私は、児相の職員に暴言を吐いてしまった。
「今の場所がダメだというのなら、施設でも里親にでもやって下さい」
「とにかく私は今、娘と会える状態ではないです」
そういって怒鳴って電話を切った。

私には出来なかったのだ。また、逃げたのではない。今のままなら愛する我が子が危険であることが行政の専門家以上に自覚していたのだ。
無理をしてまで娘に会うことが…。会いたくないから会わないのはおかしいですか? 会いたいと心から思えないから会わないのは悪いですか?

私は子供を産むべきではなかった。児童養護施設で暮らす子供になるのもいい。里親に優しくされて暮せる子供になるのもいい。旦那が娘をつれていくなら、それでもいい。とにかく、その状態では、娘と一緒に過ごすことが危険だったのだ。

小学生の頃、母親に虐待を受けていた頃、心から誓った。
「私は一生子供を産むまい!」
どうして、それを貫き通せなかったのだろう。虐待は受け継がれることが典型というなら、私はいたって典型な人間だろう。

やはり、私には子育ては無理なのか? 無理という答えを前提にして無理なのか?と問うているんじゃない。本気で自分に挑戦したいから問うているのだ。親でいられるか?子どものためには親を辞退した方が良いのか? 育児から逃げてしまった方が良いのか? 親子なんて切っても切れない関係だなんて誰が言った? 病気が、心の病気が、私たち母子の関係を危うくさせる頃だった。

引きこもれば引きこもるほど、問題は外から見えなくなる。

封鎖的で自己解決的な対応では最も危険にさらされるのは最も弱い立場の子供なのだ。精神疾患の母親が子育てする困難とリスクは外部から見られる状態にすることが鉄則だとしたら、私の場合のように児童相談所の相談員の人や心理士とつながっていたことは救われる偶然だった気もする。

児童相談所への保護が決定されてから退所の日を迎えた時の気持ちだ。
心の病気で引きこもる…母親失格の自分を支えてくれたのは、児童相談所の職員の方々だった。子育てができない私の為に娘を大事に見守って育ててくれていた方々だ。
幼い娘には、精神疾患だの児童相談所の保護だの…理解するなど不可能なこと。だから、他の子供のようにきゃぴきゃぴとした毎日を過ごすどころか、家ではないところで母親ではない人に育てられる不安や疑問は半端ないことだろうと思う。
けれど、そういう娘の気持ちをくみながらあたたかく母親代わりとなってくれた職員には感謝している。
「もうこないでね」そのひと言で私と娘を見送ってくれた職員の目には、なんだか一生記憶に残りそうなエールを感じていた。


帰り道、「これからはずっとお父さんとお母さんと一緒におうちで暮せるんだよ。嬉しいね」と言うと「うん」と言っていた娘はちょっと大人びて見えた。
寝る前に旦那とじゃれてたけど、最後はジ〜ッと私をみつめニコ〜って笑い、手を握ったまま眠った。寝入った姿を見て「もう二度とこの子を手放さない!」そう誓った。
そしてもう、自分のことを母親失格なんて呼ぶのはやめようと思った。
私は母親失格ではない。
母親失格な母親なんていないのだ。
だれもが問題を抱えながら子育てしている。失格も適格も自分を決め込むことそのものがおろかなのだ。
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